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ルーティーン



2004年8月




2004年8月31日 (火) 少子化について
人は必ずいつか死ぬ。オレも君も誰も。
生まれるという事は、死ぬ事と直結している。
「生」も「死(ここでは「老い」という方が的確であろう)」も、自発ではない以上、自己操作できない。
生まれたものは、必ず将来「死」を迎える以上、「子供を作る事」これは死を生み出す事でもある。生まれた赤ちゃんを見て「死がまた発生した」と考える人はいないであろう。しかし死は、あるシステムに驚くほどうまく隠蔽されており、そのシステムの巧妙さによって「死とは何か」に気づけない、もしくは、気づかないふりをしている。
生き続けていく上での苦しみとは、総て、死の時にやってくる苦しさを迎えるための反復トレーニングなのではないだろうか?と思う事がある。死の果てを把握する事が出来た人がいないために、死はかつて常に脅威であった。そして、死に対する畏敬から「健康体指向」も「戦争反対」も正当性を持った。

地球上に人間が多すぎるとか少なくなっているとか、数字の問題に転嫁して、本質を見失ってやいまいか。

大人(人間)が「生(誕生)」をコントロールできうると思っているこの現実に、バツ!
死を見据えるとはどういう事か理解できていない、もしくは、しようとしない現実に、バツ!
人は誰でも、苦しんで生き、そして苦しんで死ぬのだ、ということをひた隠すこの現実に、バツ!

2004年8月30日 (月) 正義と真実        →→→       「まさよしとまみ」ではない
台風が来ている。
織部亭の搬出の帰りは、あまりの突風のために、車検のための軽量の代車(セルボモード)が吹き飛んで、名古屋高速の高架から転落するかと思った。(ウソ)

ピースウォークに参加した長谷川さんの話が発端で、世界の様々なクライシスとどう立ち向かうかというテーマでのディベートが、オレと出原くんで繰り広げられた。アイスコーヒーの氷はすっかり溶け、そのグラスの水滴が蒸発してもなお、ウエイトレスは何度も水を運んでくれた。

経済学における公理のひとつ「悪貨は良貨を駆逐する」というのがオレの基本姿勢である。誤解を避けるために註釈しておくと、オレは決して悪貨の側に立とうとしているのではない。良貨がいかに脆く、儚いか、そして良貨として実存しうるための自覚として、この言葉に含まれるリアリティーを愛している。つまり理念というものは、たとえ崇高であろうとも(いや、崇高であればあるほど)、集団の規範や、短絡的貪欲、そして不履行の言い訳として、いいように加工されてしまうものだ。ゆえにこれからの時代、イデオロギーによって世界の変革が(残念ながら)起きえないとの推測が成立する以上、ファーストステップとして、個々が自己内の諸問題(最終的には「死」の問題なのだが)に対して真摯に向かい合う必要があるのだと思う。そう、集団的イデオロギーではなく、等身大の振る舞いひとつひとつこそが個人を救うのではないか。そこにリアリティーを見いだす視座を持てるか、そのリアリティーから自己に見合った正義を獲得できるかにかかっている。甘っちょろいサクリファイスなどを口にする前に、自分の足下の土が、未来に向かってダイレクトに続いている事を自覚すべきなのだ。支配者たちの都合操作による歴史の順列に学ぶものは大して多くはない。そう、あるポップミュージシャンが歌う「子供たちを加害者にも犠牲者にもしないために」というメッセージは、けっして虚飾ではない。

2004年8月29日 (日) 学生寮時代
「同じマンションに住むイギリス人+カナダ人の夫婦が家に来るから、よかったら来ない?」というお誘いを受けスーさん宅へ。しかし予想通り、彼らはやって来なかった。妥当です。

かつてのイギリス滞在初期の寮にいた頃、何度パーティーに誘っても絶対に来ない奴(イギリス人)がいた。でもかならず「絶対行くよ、うんうん、4時だよね」なんて愛想いい事をニコリとしながら言っていた男の名前はマーカス。「来なかったじゃん」というと「いやぁ悪かった、○○がうまくいかなくってさ」てなことを毎回手を替え品を替え言い訳る。彼らイギリス無責任連盟の習性がしっかりと把握できていなかったオレは、マーカスが言う「じゃ、こんどオレの部屋にこいよ」を真に受けたらお互いどれだけ困惑するかをまだ分かっていなかった。

当時20才だったマーカスは、今どこで何しているんだろうか?さすがにもうマクドナルドのポテトは卒業しただろうか。ま、特に知りたくはないが、ちょっとだけ興味ある。なにせ、奴なんかはある意味典型的なイギリス青年だからね。そう考えると、あの時のフラットメイト、ウェールズ出身のダレス嬢、ポーツマスから来たヘルパーのハナちゃん、筋ジス?で車椅子のサイモン、ギリシャの刺客ポピ子。みんな今どうしているんだろうか。たまには連絡してみるか。

2004年8月28日 (土) カレーの王様
もう2年以上前、巨大オブジェ制作にと思い春日井まで出向き購入したまま手つかずになっていた発泡スチロールの巨大ブロック(1800×900×55mm)のひとつを、造形のバイトで急遽スチロールが必要となった出原くんに譲ることになり、夕方、豊田のスタジオまで車で取りにきた。彼の車のルーフキャリアに取り付けると、まるで選挙の街宣車のパロディーようで笑えてくる。彼の手によってその白いスチロールの塊が、数日のうちに「巨大イチゴ」と「巨大受話器」に変貌するのである。

スチロール代をオレが受け取らないだろうとフンだ出原くんは、何を理由にか分からないが、レトルトカレーを20数種、段ボールの箱に入れて持ってきた。ハウス、S&B、ハインツ、、、etc ほとんどは業務用の本格的(?)なものばかりで、ボンとかククレではない。 
安城のアパートに移動し、さっそく夕食にそのカレーを頂く。オレはS&Bを、妻はハインツを、出原くんはハウスを試した。どれも個性と特徴のある味で、一品をもって「これぞ!」とは言い難い。

世界には62億もの人間がいるそうだが、「発泡スチロール代」として「レトルトカレー20数種」を発想し実行する人間はそうそういないであろう。そんな事をムヒヒと思いながらふと振り返ると、晴史郎がレトルトカレー満載の箱の中で、あろうことか足踏みしているではないか。しかも何故か満面の笑みだ。それはまさに「ワイン造りの葡萄踏み」の図であろうか。しかし、なんともあやしい姿なのだ。ぜひ想像されたし。

2004年8月27日 (金) iPod+ニョッキ
予定の時刻より早く、iPod配達人(ヤマちゃんなんだけど)がやって来た。さっそくiTunesからダウンロードするも、試聴したいのはGaregeBandの自作曲なのさ。近所のコンビニに聞きながら出向く。すると昨年の教え子大須賀さんと桃子さんにバッタリ。これからキャンプに行くそうな。大丈夫か?台風来とるよ。

昼から来ていたマルちゃんとお食事タイムに。今日の傑作は妻のパスタ(ニョッキ)だ。やたらジャガイモいっぱい茹でてるなと思ったら、知らない間にニョッキになったのね。タイミングといいボリュームといいズバリ!ですた。

その後、仕事を一段落させたスーさんも我が家に合流し、「世の中の”保護カバー”についての不整合性」について熱い議論が繰り広げられる。、、、でもふと気がつくとネガティブビームの坩堝に。温厚なマルちゃんまでも「ダーツッテンダヨ」モードに突入。なんだか奇妙な空気が流れるつつも、笑えるほどみんなそれを楽しんでたりする訳で。やはり素敵な怪しい大人の集団であったのだ。どーだ、若者ども。(←だれに?)

2004年8月26日 (木) Birthday
今日はオレの42回目の誕生日である。
昼過ぎまでの寝坊で、顔は十二分にムクんでいるのである。
子供の頃は、自分の42歳など到底想像つかなかった。
もし無理矢理想像するなら、ちょっと疲れ始めたおじさんをイメージしたかも知れない。
しっかり者のおとうさんを想像したかも知れない。
今時分が疲れているかしっかりしているかではなく、
そういう歳に現実として到達しているという事が凄い。
オレは何を残せるのだろう。

妻がちょっとだけ照れながら小さな小さなカードを手渡した。
何だろうと思ってみて見ると「Happy Birthday Manya!」と書かれてる。そんな小さな行為でもちょっと嬉しくなる。そしてカードの裏を見てみると「目録 iPod」とある。なんだ?と思って、、、ををっ、そっか、プレゼントにiPodを買ってくれたんだ。かなりびっくりのプレゼントだよぉ。
実はAppleから今日の時点でまだ届いていなかったため「目録」という形になったのだが、聞いてみるとヤマちゃんがiBookを教員価格で買った時にセット購入割引を利用して予約してくれたそうだ。ヤマちゃんといい妻といい、よくずっと黙っていられたよなぁ。本当にサプライズプレゼントとなったよ。
妻とヤマちゃんは「子供のクリスマスプレゼントをこっそり買う親みたいだね」と話していたそうだ。何とも心温まる話でねぇか。ありがとう、ありがとう。

夕方、妻のゴリ提案でステーキを買い家で焼く。
父からもらったワイン(PLEIN DE RAISIN Appellation Bordeaux Controlee:AOCボルドー)を開け、
BGMはマドレデウス(これがまたワインによく合うのだな)。
晴史郎も気を利かせてくれたのか、9時頃には眠ってくれて、二人でトコトンいろいろな話をする。
  政治・環境・人間関係・イギリス時代の思ひ出・現状打破の手段・ユルさの否定、、、etc。

こういう時間が久しぶりに持てたということ自体が、何よりの誕生日プレゼントだ。
妻とじっくり話しをすると(いつも思うのだが)彼女のユニークで独特の発想に感嘆する。
ちっとも飽きない。飽きないどころか面白くて仕方ない。
こういうところに生まれ落ちた晴史郎は、幸せに違いないだろう???
そして、俺は今日、誰よりも幸せだ。
(でも42歳なのだ。いいのかこれ?)
ありがとう。ありがとう。

2004年8月25日 (水) ここに幸あり
 「ようやくiBookが届いた〜!」と、さっそく見せびらかしにやって来たヤマちゃん。セットアップをしながら、GoLive 6の使い方などを説明したり、、、。ヤマちゃん曰く「昼間っからこうやってパソコンいじって、奥さんはキッチンで煮込み料理を作ってて、これ絵に描いたような幸せじゃん?」と。確かにそうだった。ヤマちゃんが来る前、自分でも自覚していたのだ。これこそが幸せ!と。しかしこれはアリとキリギリスの、、、?。ふと妻に「がんばろうな」と声をかけるも意味不明だったろう。

 ヤマちゃんが9時頃帰ってから、パソコン(メイン機G4)の改良修理に取りかかるも、大いに手間取ることになった。今まで何かとトラブルの元だったRAIDカードを取り外し、純正系のシンプル構造にした。とはいえQuickSilver(オレのはM8667)は大容量のHDを認識しない機種(最大137GBまで)なので、RAIDを組んでの160GBの増量は方向としては間違っていない訳だ。取り外したらオークションで売っ払おうと考えていたが、これは考えどころかも知れない。

 コンピュータ調整が終わった後、「よちよちせいしろう」を晴史郎サイトにアップした。ここでもトラブル発生で、GoLiveがちゃんと機能しなくてアップロードができない。再インストールや怪しいファイルの削除などを繰り返し、ようやくアップロードが終わったのが朝の6時という訳だ。

 インストール待ちやクリーンアップ待ち時間に見たテレビ番組「カウントダウンTVスペシャル」から流れていたいくつも曲は、とても懐かしいものばかりで胸がしめつけられた。当時を思い出すにつけ、いま世界観が大きく変わった事を認識させられる。

2004年8月24日 (火) ひょん
夕方、ヤマちゃんが誕生日プレゼントを持ってやって来た。
グダグダ話しているうちに、ひょんなことから目から鱗が落ちる。
もしかしたらきわどいツボだったかも。
いつの間にか、自分の中のクライテリアが、相対的なものに浸りきってしまっていたようだ。
そういうところから一番遠くありたいと日頃口にしていたはずなのにもかかわらずだ。
リマインダーは意外な形でやって来た。
新しく気にしなくてはいけないクライテリアの一片として、注意深く思考しようと思う。

2004年8月23日 (月) ゆっくり
二日酔いの回復に、昼過ぎまで眠る。
妻のおごりで寿司屋に行く。

2004年8月22日 (日) 千果の成長
朝6時に、隣の物音に目覚めた千果とともに、近所のコンビニに散歩する。部屋に戻ってからも、みなみが目を覚ます7時過ぎまで、キッチンで静かに話をした。
今回、千果がずいぶん成長していた事にとても驚いた。子供だとばかり思っていたが、もう大人の扉を開けつつあるのだな。話す内容や周囲への気の遣い方の健気さに、彼女が遠い存在になるような気がした。そして5年の歳月を感じた。
帰る間際、千果が持参した金管楽器(ユーフォニウム)を公園でもう一度聴かせてもらった。恥ずかしがりながら一生懸命吹く姿は、ずっと忘れられないものになるだろう。

千果とみなみを送った後、太田君の搬出を手伝う。
中條くん、大河原くん、怡土くん、アルコバ、長谷川さんなど大勢いたので、一気に片付いた。
太田君宅への運び込みの後、焼肉屋で打ち上げ。
オリンピックの話からはじまり、美術の国際化について盛り上がった。

中條君と長谷川さんとともに太田君の部屋に戻り、四方山話は続くのである。長谷川さんは12時頃、中條君は4時頃帰っていき、結局オレは泊めてもらって朝帰り。宴の後の散らかったテーブルを簡単に片付け、寝ている太田君を起こさないように帰ろうと思ったのだが、太田君が「これもってって」と眠い目をこすり渡してくれたのが、晴史郎の服。プレゼントだった。ヤンキースのユニフォーム仕様の服だった。

2004年8月21日 (土) 常滑やきもの祭 + 千果・みなみ
朝8時半に家を出て、常滑に向かう。「常滑やきもの祭」に行くためだ。
常滑までは車で1時間20分かかったが、去年より早く着いたように思った。
とこなめボートの駐車場に車を置き、さっそくお目当ての「はかり売り」のブースに向かう。
今日の狙いは、小振りの皿と、茶碗、しょうゆ入れ、急須、、、。
驚くほど安く、狙いのものを手に入れられた。
毎年少しずつ器をグレードアップさせようと計画しながら帰路につく。

午後2時半、千果とみなみが安城に到着する。千果は中1、みなみは4年生になっている。
近所のデニーズでパフェを食べ、彼女たちの楽しみであったプリクラをしにゲームセンターへ。
夏休み中の土曜のゲームセンターは驚くほど混んでいた。

部屋に戻り、晴史郎と遊んだ後、昨日作ったカレーをみんなで食べる。みなみは妻と一緒にパイ生地ケーキを作り、千果はパソコンに夢中。とても興奮した二人が眠ったのは、12時過ぎだった。

2004年8月20日 (金) カレー
今回は、あまり辛くなく、コクのしっかりあるものを狙った。
まず、玉葱4個をみじん切りにし、フライパンでキツネ色になるまで中火でじっくり炒めること40分。
炒めたタマネギを深鍋に移し、次にニンニク5片と牛挽肉をフライパンでしっかり炒める。
そこに乱切りにしたニンジン4本を入れ、一緒に炒める。
それらを先ほどの深鍋に全部入れ、水を足して煮込みに入る。
香り付けにローレル2枚、まろやかさのためにココナツミルク大さじ3杯、コクのためにハチミツ大さじ1杯、風味付けにインスタントコーヒーを少々。
4時間ほど煮込み、そこにバターで焦げ目がつくまで炒めた牛肉のかたまりを入れる。
さいごに市販のカレールー2種類を入れて出来上がり。
明日まで待てば、味がなじんでよりまろやかになるだろう。

2004年8月19日 (木) 再訪問
夕方、太田君の展覧会に再度訪問した。
閉館までの時間、じっくりと作品の話を聞かせてもらうことができた。
美術館を出て、太田君と歩いているとき、
かつて、自分の個展会場を夕方ひとりで去る時に感じていた「取り残された孤独」が
強く強くよみがえってきた。
その後、太田君と近くのファミレスでお茶をした。

2004年8月18日 (水) トド衆
 朝、必死で早起きをしてバイトに出かけたにもかかわらず1時間ほどで仕事が終わってしまった出原くんは、正午前にやや眠そうに戻ってきた。そして、連日の酒でダルくなっているオレとともに、昼寝よろしくウトウトとしながらまたも非生産的にゴロゴロ過ごす。そういう状態の時に出原くんと過ごすのはとても心地よい。もちろんこれは悪意ではなく、彼の心持ちは、切迫感やハツラツ感によって他を押さえ込む事がないからだ。その後、三河湾佐久島の探訪を終えた幹永くんと合流したのが、午後5時近くだった。豊田市美の閉館時刻に合わせて太田君に連絡し、安城の焼き鳥屋にみんなで行く事にした。
 太田君の到着時にはすでに、佐久島の話と数本のビールによって我家でそれなりに盛り上がってきており、すぐにでも向かうはずが腰が充分重くなっていた。花Pちゃんネタ(コレ大きなお世話)でひとしきり盛り上がった後、ようやく焼き鳥屋に出かけた。我家から歩いて行けるところにある焼き鳥屋で、以前よく、妻の仕事帰りに出かけた二人のお気に入りの店だ。その店では2時間ほど幹永くんの前途揚々(前途多難?)な人生を肴に祝杯をあげ、チビチビと焼き鳥をつつきまくった。
 それからもう一度部屋に戻り、性懲りもなくオリンピック観戦。太田君宅よりはるかに狭い我家で、40過ぎのオヤヂ4匹が狭苦しそうにゴロゴロする様は、ある種の悲哀すらにじみ出る。そしてそれは目に痛いほどのユルイ現実なのだ。しかし何と言っても、そういう連中とこうして付合えるのは、決して自嘲的ではなく、オレにとって充分満たされたの人生なのだ、と思う。

2004年8月17日 (火) 初日
 太田君宅に泊まった出原君から「いまからそっち行くね」の電話があったのが12時すぎ。オレは二日酔いで少々辛い状態だったし、出原君も寝不足のため辛そうで、、、そんな中で晴史郎だけが大はしゃぎだった。妻と晴史郎&出原君との4人で太田君の個展会場である豊田市美術館に向かった午後4時まで、ダラダラと非生産的惰眠をむさぼる事となるのだ。
 会場にはすでに多くの友人が来ており、賑々しく大盛況である。太田君もリラックスした顔を見せている。午前中のテレビの取材の様子などを交えながら、友人たちと軽快なおしゃべりをしている。やがて閉館時間がやって来て、近所の居酒屋にみんなで繰り出す。総勢14名+3子供。長いテーブルにそれぞれが座したため、自然発生的に二つのグループでそれぞれの話となる。太田君が所属したのは、吉本さんを中心とした笑い声高らかチーム。一方オレは拝戸さんを中心とした鬱々ロジックチーム。オレは基本的に笑い声高らかチーム系なので、席が吉本さんとは慣れてしまったのが少々悔しい。しかしいつもは学芸員的なクールな面をした拝戸さんが、その日はまるで堰を切ったように多言となりいくつかの面白い話が聞くことができた。なかでもラテン人の本質と習性(性欲とタブーの歴史)の話は実に痛快で、ラテン系のヤマちゃん共々大いに盛り上がった。
 居酒屋を解散後、2次会は恒例の太田君宅で、今年はオリンピック観戦とあいなった。意外にも井上さん(中日新聞)も参加。柔道での金メダルに大いに沸き立ち、展覧会の話が追いやられていた感はある。そしてオレは深夜に出原君と帰宅した。

2004年8月16日 (月) 搬入
 豊田市美術館で行われる太田君の個展の搬入(以下略して「太入」という)を手伝うため、AM10:30に太田君宅へ。今年で4年目になる太田君の個展(in豊田市美)だが、搬入をオレはようやく手伝える事になった。昨年までは毎年、何かしらのどうしても外せない用事が入ってしまっていたのだった。デリケートな太田君が超ナーバスになる話は、昨年までの「太入」メンバーからしばしば聞いていたのだけど、今年に限っては十分な余裕があるように見受けられた。
 同じく今年度「太入」メンバーの出原君が美術館に到着したのがAM11:30頃。3人で展示室への運び込みを済ませたところで、ランチタイム。「花卍(はなまんじ)」という変わった名前の中華料理に行く。他人の展覧会の搬入なので、ビールはやめておいた。
 食後の眠気に襲われつつ、セッティング開始。出原君にとっては搬入など慣れたものだし、毎年「太入」しているだけあって、要領をよく心得ており、見る見るパネル展示の部が終了した。そしてキャンバス展示に於いても、オレの予想をはるかに上回る速度で展開して行ったのだった。
 全ての作品が掛け終わった段階で壁の汚れを気にした太田君が、美術館備え付けの塗料で壁の補修を始めたのだが、これがひとつの事件になってしまった。数十カ所補修した時点で壁から離れて見てみると、塗料の色相が微妙に違うのだ。庶務課に連絡して、新品のペンキを持ってきてもらうが、それも微妙に色が違う。紫外線焼けやクスミのせいで、白い壁は当初の白とは変容しているのだ。そこで出原君の出番。ほんの僅かにグレーの入った白を、調合して作り上げてしまうというマジックを披露してくれる事となる。庶務課の美少女の大いなる感動を受けながら、再補修をする。
 「太入」が終わったのは、午後5:30だった。美術館の近所の銭湯に行き、汗を洗い流した後、「板門店」という韓国焼肉屋に行く。たっぷりビールを頂き、大満足の一日となる。そして太田君宅に戻り、明け方まで四方山話に花を咲かせる事になった。とにかく太田君おめでとう。

2004年8月15日 (日) 金沢4日目
 帰省Uターンラッシュの渋滞を避けることは不可能だろうから、覚悟決めて午前中をゆっくり過ごす。義父・義母と晴史郎の時間もできるだけ持ちたかった。新鮮な朝食を頂いた後、午後10時半、金沢を出発。高速の交通量はとても多く感じる。そしてどの車も飛ばしている。北陸道はともかく、名神は大変なことになるぞ、、、。
 と思いきや、意外にも、一度の渋滞に遭うこともなく豊田まで着いてしまった。金沢から3時間半弱だ。車中では、この4日間にあった楽しい思い出を「アレがあった」「コレもあった」と妻と大いに笑いあった。妻の親族との時間、オレは大好きだ。本当に楽しい人々だ。
 そしてオレはちょっと金沢弁が上達した、と思う。け?

2004年8月14日 (土) 金沢3日目
 金石港の魚市場で買物をした後、津幡へ出かける。津幡町倉見は妻の母方の実家。高校野球とオリンピックをザッピングしながらの刺身&ビールは、今年の帰省の典型的な光景だろう。
 夜、倉見の盆踊りがあり、飲み疲れの気分転換にちょっとだけ出かけてみる。沿道にはチラホラ蛍のいる自然溢れる町なのだ。いつもきれいなヨーコさんは、浴衣姿も艶やかだ。この町の盆踊りは、妻が幼い頃には毎年にぎわい多くが踊ったのだそうだが、伝統の津幡音頭を踊る人は少なかった。しばらくすると「炭坑節」が流れ始め、一斉に踊りの輪が大きくなった。25年以上ぶりに聞くその曲に、懐かしさが込み上がり目頭が熱くなった。詳細な曲のアレンジも覚えているものだと自分で感心した。う〜ん、あの頃、、、少年のオレにとって、まだ世界は闇の中だった。
 そして「良き日本」がここにはしっかりと残っているのだ。闇が闇のまま存在している。翻って、オレを包む平均的な日本の日常は、何かが大きく間違っている気がし、そのサイズが予想を上回るものだと認識させられた、弱く弱くそんな気がした。

2004年8月13日 (金) 金沢2日目
 金沢の「からくり記念館」へ連れて行ってもらう。大げさではないところが、予想よりもずっとナイスなところだった。その後、船員食堂に向かうも、お盆で休業。これは実は楽しみにしていた事だっただけにちょっとガッカリ。でも中央市場付近の寿司屋に連れて行ってもらえた。さすがに市場に近くだけあって、ネタが驚くほど美味かった。
 帰ってからは、もう一度屋根に上がり、2階のテレビも完全に映るようにケーブル分岐装置を施す。これで深夜のオリンピックもしっかり観ることが出来る。
 今夜は、マッコさんがやって来る。そして夜8時過ぎには、お義父さんも金沢入りだ。大宴会になる事間違いなし。さあ、今夜が楽しみだ。

2004年8月12日 (木) 金沢1日目
 朝、6時45分に妻の実家である金沢に向け出発。予定より30分ほど早く出たのだが、名古屋IC付近から渋滞が始まる。結局、北陸自動車道に出るまで(関ヶ原すぎまで)渋滞は断続的に続いた。いわゆる「お盆帰省ラッシュ」のど真ん中だ。それはそれでライブ感覚があり楽しいものだが、神経は思っている以上に疲れるのだ。北陸道「徳光SA」はエリア内から歩いて海(砂浜)に出る事が出来る。多くの海水浴客の中、晴史郎は海に足をつけビビって大泣き。金沢には昼過ぎに到着した。
 到着後の午後の時間は、金沢の家のTVアンテナ修理に当てる。お義母さんにホームセンターへ連れて行ってもらい、アンテナ修理キットを購入。屋根に登り、錆びて壊れた支柱を交換した。それとケーブル分岐器を装着。これだけの事で、とてもきれいに映るようになった。
 その作業中、幹永君から「コンピュータが起動しなくなったんだけど…」の電話が入る。PRAMクリアやCD起動での修復など伝えるが、結果としては、オレのアドバイスとは関係なく、幹永君の自力の対処によって治ったようだった。まったく役に立てず。
 例の「看板」は、お義母さんに気に入ってもらえたようだ。

2004年8月11日 (水) ナデシコヤマギシ
昼まえに、図書館に出向く。
  奥田英朗「マドンナ」
  白石一文「僕のなかの壊れていない部分」
  ラリー・バークダル「ナゲキバト」
  ブリジット・ラペ「うそとホント」
これらは明日からの金沢遠征中に読むつもりだ。
白石は初体験だが、とても期待している。

深夜、アテネオリンピック最初の競技(開会式前ながら)女子サッカーが行われた。日本チーム「なでしこジャパン」は、あろうことか強敵スエーデンに気合いだけで勝ってしまった。ディフェンスの山岸さんが地味ながらいい仕事をしていた。翌日早朝に金沢に向け出発予定なので夜更かししている場合ではないのに、力入って見てしまった。今回のオリンピックはなんだか楽しみ。

2004年8月10日 (火) 義兄の懐
今日は、義兄(小説家)宅におよばれする。彼の新作本を3冊頂いた。
ふところの深い人間と過ごす時間は、乾燥地に水が染入るような豊かさをもたらすものだ。
まだまだ全然話し足りなかったが、晴史郎のこともあり11時頃に帰路につく。

小腹がすいていたので、途中の吉野家で豚丼(持ち帰り弁当)を注文。
部屋に戻ってから妻と二人で食べた。
妻は「受験生のようだね」と言ったが、オレにはピンと来なかった。
彼女にはそういう体験があったのだな。
少女の頃の彼女を思い、彼女の頭をなでた。
オレの入れたコーヒーをおいしいと言ってくれた。

2004年8月9日 (月) パ・リーグ
 紆余曲折を越え、ようやく看板が完成した。結構ストレスフルな仕事だったが、没頭できただけ良かったよと思う。それに出来映えはそこそこ気に入っているし。(でも、その「そこそこ」てのはどーなんだ?ある意味ダメってことじゃねーか?)
 深夜、みうらじゅんがTVに出演。大いに笑った後、深い深いモノが心に残る。まさに、そーゆーことじゃん。スタンダードではなく、さりとてアンダーグラウンドでもなく、、、どこにも所属しない視点から発せられるメタファーは、実にしみるぜ。トンチぢゃねぇってことだな、まさに。Good focusing at all!!!

2004年8月8日 (日) 突発の宴
 夕方ヤマちゃんがやって来る。それ前に今日の分の制作を終え、部屋の掃除をすませ、買物に出る。途中、近所のサークルKのおばちゃん(馬場さん)と立ち話。ドンキのせいで大迷惑だと、、、。だよな。
 予定より少しだけ早くヤマちゃんが来る。なんだかヤマちゃんとは久しぶりの気がする。とはいえ例の調子で捲し立てるヤマちゃんだったが、オレも全然強気の大応戦。結構熱くなってきたぞ。ヒートしたオレは、妻に「迷惑だからヤメとけ」と制されるのを聞きつつもスーさんを誘う。しばらくして杉浦家登場。ツーベイビーズはけん制しながらも微妙なご機嫌タイム。そんな中、ヤマちゃんとオレのたて続けの副流煙攻撃はいま思えばよろしくない。が、酔談コンビは気づきもしないダメ野郎と化していた。ヤマちゃんのiPod見せびらかしと、マルちゃんの執念論で大いに盛り上がる。
 スーさんたちが帰ったあと、ヤマちゃんと祭の後的空虚感のジメった時間が少し過ぎる。と思ったが、どうやらヤツは自分の作品のアイデアを練っていたらしい。そりゃ気もそぞろだわな。はいはい。で、どうなの?
 深夜2時過ぎ、ヤマちゃんは泊まって行くことになり、床を作る。オレは布団に入るもやはり寝付けず、、、。結局「海猫」を読破し気づくと朝方だった。いつか函館に行ってみたくなった。深酒とうつ伏せでの読書のせいで腰に鈍い痛みが。ヤバイ。肝臓ガンで死ぬ男の話も出てきたし、、、。「海猫」の劇場公開はこの秋だ。

2004年8月7日 (土) うとうと
徹夜で本を読み、朝方寝入ったものの、午前10時には目覚め(させられ)てしまう。数年前まで慢性化していた睡眠不足による倦怠感。当時はその倦怠感に(それが通常だったため)気づきもしなかったが、最近努めて寝るようにしていたら、ぐっすり眠ると体が軽いだけでなく思考速度も上がることにようやく気づけたのだ。とはいえ、ここ数日は久しぶりの睡眠不足を楽しんでいる、というのはウソで、寝付きが悪く、寝入ってもすぐに目覚めてしまう。特に不安がある訳ではないと思うのだが、、、。うとうとがまとわりつくのは鬱陶しい。

例の看板は、塗装(下地)に不満は残るものの、残り日数を睨みながら着々と進んでいるのだ。

2004年8月6日 (金) 徹夜
昨夜はついに全く眠れず、朝まで「海猫」を読む。疲れて時計を見ると午前7時だった。気がどこか張っているのはなぜだろう?

2004年8月5日 (木) MAX
 溶接による紫外線火傷で、部分的に皮膚が痛む。半袖短パンに面も着けずの作業のせいだ。筋肉疲労もあって、スタジオ入りは午後。バイオリズムが完全MAXなのだそうだが、、、と思っていたら、小さなラッキーが。購入した2枚入りのジグソーの刃セットから刃が3枚出てきた。これがバイオリズム完全MAXなのか???と思うも嬉しい事には変わらず。そういえば午前中の買物で、行列で有名な移動メロンパン屋から「可愛い赤ちゃんだね!」と、メロンパンひとつおまけしてもらい妻が大喜びしていた。これは関係ないか。
 支柱の組立て及び飾りの溶接関係はほぼ終わり、修正箇所にポリパテを埋めて硬化待ちを仕事の切りとする。明日のパテ削り出し修正がうまく行けば、いよいよ塗装に入る事ができる。今回は皮膜を厚くするために3層塗りにしようと思っているので、乾燥時間も含めて日数を要する。金沢に行くまでのあと5日あれば終えることができるだろう。とにかく出来上がりが楽しみだ。気に入ってもらえるといいのだが、、、。

2004年8月4日 (水) 出来映え
 昨日プラズマで切り取った板サイズを元に、さっそく支柱制作を始める。取り置き鉄材を使っての作業。ビシビシの溶接と削りで、かなり疲れ切る。体力が十分消耗しきった頃、マルちゃんからの誘いを受け、制作を切り上げて夕食をご馳走になりに向かう。ビールが疲れたカラダに染み入る快感、、、。
 体は疲れているものの何故か頭が妙に冴え、夜さっぱり眠れずに、気がつくと明け方まで「海猫」を読んでしまう。

2004年8月3日 (火) 一宮にて
 午前中、かなり前から頼まれていた、金沢の義母の絵画教室の看板のアイデアを練る。鉄製で、切り抜き文字のアイデアに決定し、プラズマ溶断機を持つ幹永くんに電話すると「いいよお」の返事。幹永くんのスタジオに着いたのは午後2時半。缶コーヒー飲んで、さっそく作業開始。思ったよりは操作が難しかったが、しばらくすると慣れてきて、スムースに切断できた。鉄を切る時の独特の匂い、なつかしい。
 作業後、幹永くんのスタジオでビールを頂く。いろいろと話が弾み、気がつくと夕方になっていた。というより、夕方まで付合ってくれた。帰宅する幹永くんと入れ替わりに歯科帰りの出原くんと合流し、食事に出る。幹永くんのスタジオの近くの喫茶店でしばらく話した後、名古屋高速で帰宅。工事が多く、突然の車線規制で死ぬかと思った。

2004年8月2日 (月) 空中ブランコ その2
「空中ブランコ」は単なる痛快お気楽文学ではなかった。
最後の章で、突然世界が変わるのだ。作者が何を言いたかったのか、最終章でパッと開く。もちろん気づかない読者にとっては何も変わらないのかもしれないが。しかしこのことを言うために、この本全体の構造があると思える仕掛けだのだ。読後の最初の一言は「いやぁ、よくできてる」だった。やはり直木賞を取るだけの事はあると思った。
 なによりも、ものを制作している身の自分にとっては、涙が出るほど(実際には出ないけど)身にしみる話だ。今回の直木賞受賞作品は(特に前回と比べて)、どちらの作品も非常にレベルが高い。

  熊谷達也「邂逅の森」
  奥田英朗「空中ブランコ」

2004年8月1日 (日) オープニング
 今日は織部亭の搬入&セッティングであり、初日である。妻と晴史郎を連れだって、午前10時に着くように高速とばして一宮に向かう。セッティングは順調にすすみ30分ほどで終了した。
 大島さんと少し話した後の11時半頃、江坂さんと立松さんがやって来た。まもなく平松さんも表れ、ISEA事務局ガーリートークが始まった。最近一宮に引っ越したという山田氏も合流しISEAチーム親睦会。予定変更の太田君と寝起きで歯痛の出原君も、昼の部に来てくれる。
 ISEAチームの帰還のあと、太田君が妻と晴史郎を連れて帰って行った。その後は出原くんと織部亭でダラダラ時間をつぶす。ハラ減ってきたので、車で大衆食堂半田屋に行き軽く食事をとる。
 夕方6時過ぎた頃、中日新聞の井上さんが(女の子とのハイキング帰りに)来てくれた。まもなく幹永くん、吉本さんがやって来た。大島さんからの差し入れのワインを開け、楽しい時間は始まった。やがて今村君と染谷さんが現れ、上瀬さん、杉山君、浅田さんと予想以上に集まってくれた。すっかり盛り上がった頃、ヤマちゃんがアニエス・ワイルダーを連れて来てくれた。とたんに英語モードになるが、英語の出来る人間がたくさんいたので、さして会話が滞る事はなかった。
 宴会も終わりみんな帰ったあと、幹永君とともに出原くん宅に転がり込む。劣情だのアカルイ未来だの散々くだらないお節介話をしこたま続け、深夜4時過ぎに解散。帰りの高速は強烈な睡魔に襲われ辛かったが、何とか帰還できた。みんな今日はどうもありがとう。おかげで楽しい時間が持てました。また、作品の感想など聞かせてね。